ヒストリー
【小学生時代】 1976年~1982年 | 小学3年生でラグビーと出会う 仲間の1人が「今日はラグビーして遊びたい」と言いだし、田んぼで遊んだことがキッカケとなり、ラグビーの楽しさを知る。 母親に、「地域のラグビースクールに通いたい」と相談すると、習字とそろばん塾に行くことを交換条件とし、ラグビースクールに入部。 |
【中学生時代】 1982年~1984年 | 中学校にラグビー部を作る 入学した中学校にラグビー部がなく、野球部に入部。入部1か月後肘を壊し退部。同級生らと先生にラグビー部を作ってもらい、ラグビー漬けの毎日。 2年生の時に椎間板ヘルニアなり、完治するまで半年程度かかる。復帰するも練習についていけず、そのブランクを埋めるために始めた自主トレーニングによって、ダントツで走りが速くなった。 3年生の時に、男鹿市の陸上の大会に推薦出場し、100m、200m、400m、リレーで4冠となる。 ラグビーでは、創部3年目にして秋田県代表となり「第3回東日本中学生大会」で初出場初優勝を飾った。 |
【高校時代】 秋田工業高校 1984年~1987年 | 1984年:1年時に全国制覇 1年生からレギュラーとなり、全国制覇。 大学進学は、日本体育大学に進学して先生を希望していたが、ラグビー界の大御所、明治大学の北島忠治監督に「吉田は俺が預かる」という一言で、明治大学へ進学が決まる。 |
1986年:高校日本代表/ニュージーランド遠征 | |
【大学時代】 明治大学 1987年~1991年 | 1987年:人生の恩師・北島忠治監督との出会い 新人でレギュラー。 4年生で主将になり、低迷していた明治大学ラグビー部を5年ぶりに日本一に導いた。 参考〈明治大学「その男、絶対につき」~1990年・吉田義人~〉 https://number.bunshun.jp/articles/-/846958 https://number.bunshun.jp/articles/-/847975 |
1991年:日本代表選出/オックスフォード大学戦で代表デビュー | |
【伊勢丹時代】 1991年~1999年 | 大学2年生の時から伊勢丹にオファーをもらい、「吉田くんが学んだことをチームに還元して欲しい。仕事面も百貨店だから100通りの業務に携わることができる。自分に合うものが見つかるのでは?」という言葉に魅力を感じ入社を決める。 1991年:第2回イングランドW杯に出場。 1992年:ニュージーランドラグビー協会100周年記念試合出場。 1993年:7人制ラグビーW杯にキャプテンとして出場。 1996年:イングランドラグビー協会125周年記念試合に出場。 |
【フランス時代】 2000年 | 日本人初のフランス1部リーグのプロラグビー選手へ 残り少ない選手生命をかけ、日本ラグビーに貢献したいと決意。 伊勢丹を退職し、中学生のころから憧れていた「シャンパンラグビー」と呼ばれる芸術的なプレースタイルが繰り広げられるフランスリーグへの挑戦を決意。4チームからオファーを受け、フランス1部リーグUSエロミエに入団。 |
【三洋電気時代】 2001年~2002年 | 国内日本人初のプロ選手となる |
【福岡サニックスボムズ時代】 2003年 | 現役引退 |
【横河電機時代】 2004年~2008年 | 2004年:ヘッドコーチに就任 2008年:ディレクターに就任 2007年にチームを全勝優勝させてトップリーグに昇格させる。 また、ラグビー部だけでなく、社業では最年少部長に抜擢される。 |
【明治大学監督時代】 2009年~2013年 | 北島監督が亡くなり、全国大学選手権にも出場できないほどの成績 になった明治大学から再建のオファーが届く。 社会に出てからも北島監督に恩返しをしたいという思いで、横河電 機退職して明治大学ラグビー部監督に就任。 監督就任時に企業からの出向という立場をとらなかったのは、 北島忠治監督の教えに 「本物であること」 「本流を歩むこと」 「本筋を貫くこと」 この座右の銘の言葉通り、監督業に身を捧げ、学生に尽くそうとい う決意があった。 監督就任4年目に、14年ぶりの関東対抗戦優勝に導く。 |
【サムライセブン】 2014年~現在 | 7人制ラグビーの普及と強化を目指し、図抜けた身体能力を持ちな がらも他競技で埋もれているアスリートを転向させ、セブンズ選手 として鍛え上げ、オリンピック選手を育成する事を目的として、日 本初7人制専門クラブを設立。 選手には、ラグビーのスキルだけでなく、社会に貢献できる人材教 育を行っていることが評価され、選手たちは、さまざまな企業から 社員として採用されている。 |